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ローカルしらべ

生まれ育ったこのまちに、ひとが集う建築をつくりたい。『インターメディア・水脈 代表 佐々木翔さん』

2023.06.01 ひと

いとなみ研究室がおくる「ひとこと講座 -公開取材とローカル編集-」の公開取材企画・第6回は、株式会社インターメディアと株式会社水脈の代表を務める佐々木翔さん。

島原市に事務所を構える建築設計事務所インターメディアは、今や長崎県内のまちづくりにおいて重要なポジションに。建築物はユニークなデザインが特徴的でありながら、周辺地域との関わりやクライアントが求めるニーズまでを考え抜かれた設計を手がける。

設計作品は数々の賞を受賞し、建築雑誌や各種メディアにも多数取り上げられるなど、業界においても注目のローカル企業だ。佐々木さんは現在、インターメディアを立ち上げた父・信明さんと共同代表を務める。

生まれ育った島原に対して感じていた閉塞感は、時を経て、佐々木さんの仕事や暮らしにとって魅力的な要素の一つへと変化した。それだけでなく、さまざまな「ひとが集う建築」との出会いの中で、佐々木さん自身が地元につくりたいものを思い描くようになる。

そうして新たに島原市・万町商店街に誕生した「水脈 mio」。どんな体験や風景が、水脈の構想を生み出した源流になっているのか。佐々木さんのこれまでを読み解いていく。

これまでのキャリアと働き方

佐々木さんは高校生まで島原で暮らし、福岡県の九州芸術工科大学(現 九州大学芸術工学部)・九州大学大学院に進学した。卒業後のキャリアは、東京で設計事務所「SUEP.」を構える末光弘和・末光陽子夫妻に5年間師事する。末光夫妻は、佐々木さんが心から尊敬する人物だ。

島原に帰ってきたのは2015年。佐々木さんが30歳になる年だった。それからインターメディアの一員として改めてキャリアを再スタート。代表の父と協働しながら、東京で培った経験を長崎で生かしていく。

佐々木「今は、九州各地の大学に非常勤講師として関わっています。九州大学、長崎大学、福岡大学。あとは今年から、鹿児島大学と佐賀大学にも行くことになり、なんか非常勤講師芸人みたいな感じになっています(笑)。つい先日、島原高校でも講演させていただきました。しっかり期待に応えていきたいですね」

結果的に、この動きが大学のない島原に学生を呼び込むことに繋がっている。インターメディアには全国から学生がインターン生として訪れたり、ほとんどのスタッフが県外出身であったりと、その求心力にも注目が集まる。

偉大な自然と、おおらか愛情を育まれる

ここからは、佐々木さんの生い立ちの話へ。

島原半島の真ん中にあるシンボル的な存在、雲仙・普賢岳。半島のほぼどんな位置からでも普賢岳や眉山などを見ることができ、島原では日常的に自然を感じられる。

佐々木さんは4歳まで福岡市で育ったが、それ以降は父の実家である島原に移り住んでいる。幼少期から雲仙普賢岳の噴火災害がとても身近な側面もあった。

佐々木「僕が幼稚園に向かうバスに乗っている最中に、初めて噴火を経験しました。でも、怖いと言うよりも、“驚き”が大きかった。夜になったら、山を見ると真っ赤なんですよね、毎日。ダイナミックさだとか、『なんかすごいな』って。当時6歳の僕はそう感じていました」

また、幼い頃は佐世保に住むおじいちゃんのことが大好きだったそう。夏休みには1ヶ月ずっと一緒に過ごすような仲だった。

佐々木「おもちゃをいっぱい買ってくれるとか、そういうのももちろんあったんですけどね(笑)。でも、おじいちゃんはずっとニコニコしてて。その影響で、中学生ぐらいの頃に、何があってもこんな風に生きていたいなって思っていたんです。それと、『30歳になるまでは、いろんなことをやったほうがいい。やりたいことは何でもやりなさい』と言われて。その言葉をずっと信じていましたね」

偶然にも、30歳までは県外に出てたくさんの経験を積み、地元へと帰ってきた佐々木さん。豊かな大自然に囲まれ、優しい祖父の愛情を受けて育ったおかげで、自然に対する畏敬の念や、おおらかな気質が養われていったのかもしれない。

島原に対して抱いていた閉塞感と、部活でぶつかった壁

佐々木さんは中学校からソフトテニス部に入り、高校生まで続ける。しかし、あることがきっかけで、道半ばで辞める決断をすることに。

佐々木「前回、諫早の陣野さんの回で、テニス部でイップスになったっていう話があったんですけど、僕も似たような経験がありまして。ある時から、レシーブが全く入る気がしない状態になってしまったんですよね。テニスはすごい好きだったんですけど、2年生で辞める決断をしました」

そして、部活を辞める決め手となった理由がもう一つ。それは、限られたコミュニティの中で生きていると、部活か勉強かの世界しか知らないままだと思ったと言う。

少し余白を入れて、自分と向き合う時間をつくる。そうすると、部活と勉強だけじゃなく、自分が今夢中になっている以外のことも世の中にはたくさんあるのだと、多感な時期に視野が広がった感覚を覚えた。

佐々木「当時、島原から早く出たいなぁと思ってましたね(笑)。なんかちょっと閉鎖的すぎるというか……。学校の校則とかも厳しいし、抑圧されてる感じがあって、早く福岡とか東京に行きたかったです」

2年生で理系・文系の選択をする際には、父が建築をやっていたこと・家に模型が転がっていたこと・単純に図画工作が好きだったことなどもあり、理系の道へ。

自身のことを自己分析すると、オールラウンド的だという佐々木さん。全体的な分野で理解力もあり、ある程度そつなくこなせるのだが、器用貧乏のような一面も。どれかに絞って深めていくことができなかったそうだが、このモラトリアム期間に、やはり建築が間違いないと悟った。

部活や勉強ももちろん大切だが、佐々木さんは一度フラットな視点に切り替えて、自分にとって何がベストなのかを見極めようとしていた。枠に捉われず冷静に俯瞰することを、すでにこの頃から無意識に実践していたようだ。

師匠から見て学んだ、自分の少し先の未来

大学では、学部の大きすぎない規模感で、距離の近い仲間たちと切磋琢磨する日々。時には徹夜をしてコンペに作品を提出するなど充実したキャンパスライフを送った。

その後、大学院まで進学。卒業するまでの半年間は、東京にあるSUEP.の事務所で働きながら、週末の休みに修士論文を書くという地獄のような日々を過ごし、「二度とあんな無茶はしない」と誓ったとのこと。

東京で暮らしていたのは、多摩川沿いの大きな河川敷があり、緑を感じられる場所だった。自転車での通勤や、忙しい毎日でも早起きしてジョギングに出かけ、気持ちのいい思い出も多い。

佐々木「僕はこの時26歳、末光さんは34歳で、今思えばすごく若い時に『自分の少し先の未来』を見せていただいたなと。僕がお世話になったのは、末光さんが伊東豊雄さんの設計事務所から独立して1、2年目くらいの頃。もちろんすでに魅力的なプロジェクトを多数手掛けられていましたが、この人は必ずこれからもっと活躍されていく方だなと思いました」

佐々木さんが、末光さんから受けた刺激はとても大きい。大きく分けて、2つの学びがあった。

知識があり、経験も豊富な人であれば、その人の指示に従って図面を描いていく過程から学びがあるだろう。しかし末光さんの場合は、とにかくフラットに意見を聴いてくれた。一緒に物事を考え、「何が最適解なのか?」を探っていくプロセスに包まれていく。

佐々木「僕の意見を、『それ面白いね』って言ってくれたりするんです。でも、実務になればなるほど、結果的に自分の能力が足りないし、末光さんの仰っていることが正しいと分かってくる。それでも結構任せてくれて、責任が伴っていくことで僕がいろいろと回さないといけなくなることも刺激的で。受動的な働き方じゃなくて、自分がどう思うかで仕事をしていかないと、良い建築にはならないんだってことを、強く感じました」

また末光さんは、環境的なファクターを建築に落とし込むスタイルでの第一人者に当たる。今でこそSDGsや環境問題が叫ばれているが、佐々木さんがSUEP.に所属していた時から、先進的に環境をテーマに打ち出していた。

佐々木「ただ、末光さんは環境のパラメータやシミュレーションだけで全てを判断することはなくて。実際にその場所を見たり感じたりした中で、『シミュレーションはこうかもしれないけど、気持ち良くないよね』って普通に仰るんです。だから、やっぱり“人を信用されている”というか」

佐々木さんが設計を手がけた東彼杵の「uminoわ」や西海の「HOGET」。つくりあげる過程では、そのチームに対してのあるべき建築の形を探っていた。

末光さんの場合は環境的なファクターが大きいが、佐々木さんの場合は、関わる人々の想いやその場所の歴史を汲み取り、どの形が最適なのかを考える。つまり地域性のようなものをファクターとして捉えている。

「アプローチの方向が異なるだけで、あるファクターをキャラクターとして抽出しているという意味では大きくは変わらないのでは」と思うようになった。

佐々木さんがどのような良い建築をつくっていきたいのか、どのようにして良い建築にしていきたいのか。東京で積み上げた経験や磨いた感性が、現在のスタイルに繋がっている。

Uターンして気付いた魅力は、島原が“こもる”のに最適なこと

佐々木さんは、2011年に東京で東日本大震災を経験。その後、担当した嬉野のプロポーザル案件が選定され、2013年からは嬉野に現場常駐することになった。

その後、2014年末まで嬉野に在中。2015年から島原に戻り、インターメディアに合流する。島原に戻ってからは、有明にある本社オフィスとは別に、サテライト的な武家屋敷オフィスを主な拠点としていた。

そして旧堀部邸という大きな建物をリノベーションし新たに完成した水脈は、ホテル、カフェ、コワーキングスペース、そしてインターメディアのオフィス機能を備えた複合施設であることから、武家屋敷オフィスは2022年末に退去している。

しかし佐々木さんにとって、湧き水の音がすぐそこにあって、情緒ある街並みのこの風景は、今でも特別な場所なのだそう。

佐々木「こういう素敵な風景に囲まれて設計活動できるなんて、素晴らしいなと常々思っていました。島原って、 かろうじて陸続きですがほぼ島国であり、何かのついでに通過するような立地ではないので、その分“こもる”のにはすごく良い地域なんです」

かつては、地元を離れて早く都会に出たいと思っていた佐々木さんだが、今では島原にこもって仕事をすることを好む。

図面を描く仕事は、クリエイティブなアウトプットが求められる作業だ。水と緑に囲まれ、空気が澄んだこの環境は、東京では決して味わえない。

また、都会の情報量の多さが、佐々木さんにはプラスに働かなかった。元々、周りに影響されやすい気質で、東京にいると全てが気になってしまう。

自分が本当に好きなことは何なのか、見えなくなってしまう感覚がとても嫌だったそう。

佐々木「都会ではただ立ってるだけで情報が流れてくる感じがすごく息苦しかったんです。でも、島原には良い意味で何もない。自分を見つめるためにはこっちが僕にはよかった。それに、わざわざ島原まで来てくださる方とお会いできるほうが、喜びも大きいですよね」

気になった展覧会があれば、佐々木さん自身が選択して足を運ぶ。遠方から島原に訪れる人がいれば、どんな目的で来たのだろうと興味が湧く。どちらにしても、能動的なコミュニケーションだからこそ、濃度の高いものが得られる環境を選んだのだった。

つくりたかった場所、見たかった風景

武家屋敷オフィスが稼働していた当時から、インターメディアには全国から学生が訪れ、さまざまな化学反応が生まれていた。

佐々木「インターン生やスタッフが議論しながら、そばで僕も図面を作っている感じがラボみたいで楽しかったですね。ある時、島原工業高校の学生さんがうちに来て、ちょうどその時にいた九州大学の学生さんと『大学ってどんなところなんですか?』とか、自然と会話が生まれていたんです。地元に大学がないことを知っている僕からすれば、この光景がすごく良いなって」

しかし佐々木さんは、武家屋敷オフィスはそれでもまだ閉ざされた環境だと感じるようになった。

例えば商店街の中にインターメディアのオフィスがあって、働いている風景が通りから少し見えているような。そんな場所が作れたら、武家屋敷オフィスよりももっとオープンで、もっと日常的にこんな光景が生まれるかもしれない。

そんな思いが芽生えてきた時に、西海のHOGETで出会った風景。企画の段階から携わり、手探りで時間をかけてつくってきた建物だ。

完成から1年後、この場所には地元の人がたくさん集まり、談笑したり芝生の上でおじいちゃんがお酒を飲んでいたりと、思い思いの過ごし方をしていた。

「こんな場所が地元・島原にもあったら……」。武家屋敷オフィスで少しずつ生まれつつあった交流の風景と、自身が手がけた空間に人が集まる風景。佐々木さんが実現したいものの輪郭が見えてきた。

佐々木「妻にこの前、『翔くんが10年ぐらい前に言ってたことが実現するのかもね』って言われて思い出したことがあって。10年前というのは、僕が嬉野に住んでいて、その時にできたのが武雄図書館。あそこって公共空間だから、ネガティブなことも含めていろんなことを言われてますけど、僕にとってはもう最高の場所だったんですよ。高校生が勉強したり、僕も現場で嫌なことがあればここで仕事してました。地元にこんなところがあったら最高だよねって。でも、それってなかなか難しいだろうなと思ってました」

時を経て、佐々木さんの目の前には旧堀部邸という大きなプロジェクトが現れた。

もしかしたらチャンスかもしれない。この街に欲しいと思っていたことを落とし込めるかもしれない。佐々木さんがかねてより思い描いていたことが、実現できる時機がやって来た。

地元の人に開いてフランクに来れる場所へ、そしてもっと流動的なひと・ことの動きが生まれる拠点へ。

設計者としての道を歩む中で、手がけた空間に人が集まる様子を目の当たりにした感動は、確実に水脈の構想へと繋がっている。

公開取材の様子はこちらから。

佐々木翔さんの「水脈 mio」の記事はこちらをご覧ください。