人・仕事・地域をつなぐ仲介人。『株式会社 里山建築 里山賢太さん』
2024.04.20 ひと長崎県内各エリアのキーパーソンを講師に迎え、公開取材や参加者を巻き込んだトークセッションを行う「いとなみ研究室」。本企画は長崎県地域づくり推進課と(一社)東彼杵ひとこともの公社で運営を行っており、2023年度は6回、2024年度は7回、長崎県内各地で開催してきた。
今回、2024年度いとなみ研究室の最終回として2024年2月23日に波佐見町のキーパーソン、里山 賢太さんを迎えて公開取材を行った。
(この記事は、2024/2/23に開催された公開取材をもとに編集しています。)
公開取材の様子はこちら。
今や地域創生の成功例として視察対象にされるほど、地域の活性化が盛んに行われている波佐見町。その裏側にはどんな秘訣があるのだろうか。
今回のテーマである“文化と経済(論語と算盤)のバランス”に焦点を当て、まさに町のキーパーソンとして活躍している里山 賢太さんの思考に触れながら公開取材を行った。
里山賢太さんの半生と培われた感性
里山さんのメインの仕事は、江戸時代初期、1704年に創業された株式会社里山建築。家業であった建築会社の17代目として、住宅や店舗をメインにした新築、改装を行っている。
そして、里山さんのもう一つの顔が、今回の取材会場となった旧波佐見銀行に事務所を置く一般社団法人金富良舎の代表理事。金富良舎は「人と仕事、地域をつなぐ仲介人」をコンセプトに、波佐見の中央エリアのランドマークを目指した地域団体だ。
これまでに大阪の阪急を会場にした物産品の販売、高校生とタッグを組んだキャンドルイベント、波佐見講堂を使った音楽イベントなどを行ってきた。
そんな二足の草鞋を履く里山さんの半生をたどってみよう。
里山さんは1977年、3人兄弟の次男として波佐見町に誕生。現在47歳で、一人の娘さんを持つ父親でありながら、里山建築の17代目、そして金富良舎の代表理事を務めている。
子どもの頃は、高熱のままお遊戯会に出たり、近所のお兄さんたちにいつもついて回ったりと、元気いっぱいの目立ちたがりっ子だったそうだ。
10歳になると映画「Stand by Me」を観たことがきっかけで冒険とアメリカのオールディーズ音楽に影響を受けることになり、毎日のように冒険を繰り返す日々を送っていたそうだ。ただ、電車が通っていない波佐見では線路を歩くことは叶わず…(笑)
この頃には生徒会長にも立候補。落選はしたものの、この頃から集団のリーダーに立つような頭角を見せていたのだろう。
また、サッカーチームに所属したことでさらに活発な少年へと変貌を遂げていく。しかし、中学校に上がると同時に「上には上がいるなぁ」という漠然とした気持ちを抱き、どこか半歩引いたポジションへ移るも、冒険心だけは消えることがなかったのだとか。
中学校当時の家業との関わりを問われると、「あまり関心を持っていなかった」と語った。将来仕事を継ぐという意識もまだなく、とにかく音楽やファッションに夢中な中学時代だったそうだ。
高校は長崎県立佐世保工業高校の建築科に進学。高校は先生と父に決められたもので、推薦で入れるならと腹を括った進路選択だったそうだ。
高校卒業後は大工になると思っていたが、入学直後に「お前たちは職人になる為に来たんじゃ無い、技術者になるんだ」ということを聞かされた。里山さんはその事実にギャップを感じながらも、すぐに「かっけぇ!」と受け入れたと語る。
「何事も割とすぐにかっけぇ!ってなるんですね」と会場は笑いに包まれていたが、何事もすっと自分の物にしてしまう受容力は、里山さんの大きな魅力の一つなのだろうと感じた。
そんな佐世保工業高校時代で何よりも夢中になったことは週末の遊び。土曜日になるとオシャレをして、高校生にして佐世保のクラブに入り浸っていたそうだ。当時はとにかく夢中で遊び回っていたが、今振り返ると、この時に受けたヒップホップやストリートカルチャーは、今の自分を形作る大きな要因の一つになっていると語った。
高校卒業後は県内の某有名住宅メーカーに就職。憧れを持っていたゼネコンを志望していたが住宅課に回され、結局退職するまでゼネコンに配属されることはなかったそうだ。
ただ、この住宅をマネジメントするという経験が30代で迎える転機へと繋がっていく。
30代目前で感じたサラリーマンの限界と転機
志望とは違う部署に回されながらもそつなく仕事をこなしていった里山さん。30歳になると現在の仕事につながる大きなターニングポイントを迎えることになる。
最初のきっかけは、住宅メーカーのサラリーマンとして働くうえで感じた仕事の限界だった。
「自分は設計者ではないし、自分が思っているものは作れない」という気持ちが芽生えたのと同時期に、インターネットが普及したことでデザイン性を求められることが急加速し、設計者と自分の感覚のすれ違いや、お客様のニーズと会社の受容力のギャップをひしひしと感じるようになったそうだ。
それまでの住宅建築は画一的なものを大量に売るというシステムだったのに対し、クライアントがデザイン性やセンスを求めるという時代の変化が訪れたのである。
元々デザイン性のあるものが好きだったということもあり、お客様と自分との感性をすり合わせるため、以前に増してデザインというものに着目し始めたという里山さん。
お客様のニーズをくみ取って自ら考えた意匠を提案し、それを繰り返すことでお客様が高い満足度を感じられるという仕組みを切り開いた。
お客様が求めるイメージを予測して「あなたが欲しそうなものってこれですよね」と提案できることが快感でもあり、当時の一番のやりがいだったと語る。
そうした仕事を続けるうちに、里山さんの仕事ぶりは口コミで広がり、現場監督として指名される案件を立て続けに受けるように。しかし、やりがいを感じ始めた一方で、「自分が設計やアイデアの全てを出せるわけではない」と組織に所属していることで感じる限界は消えることがなく、ついに会社の退職を決意するまでに至った。
そこで繋がったのが江戸時代から続く家業である里山建築だったのだ。
「家業の中に入れば限界なくやりたいことを叶えられる」と思い、30代目前で地元である波佐見町に帰ることになった。
monne legui mooks(モンネ・ルギ・ムック)オーナー・岡田宏典氏との出会い
地元に戻ると同時に、当時、町内の西の原でムーブメントが起こっていることを知った里山さん。
そのなかでも、里山さんの転機のキーパーソンとなったのは、波佐見に初めてカフェという文化をもたらした「monne legui mooks(モンネ・ルギ・ムック)」の故・岡田宏典さんだ。
彼の生き様に強烈な刺激を受けたとともに、衣食住といった根本的なものはもちろん、仕事や文化、音楽、人など、脈々と人間関係が広がるきっかけをもらったと語る。岡田さんは良い意味でとても頑固で、「波佐見という不便な場所でもやれる」という強い自信、人を巻き込む力、どこにも負けずにどこにも恥じないようなものを作りたいという熱い思いを持った方だった。そんなエピソードがポンポン出てくる会場。
実際にお会いしたことがない私にも、岡田さんがいかに魅力的な方だったか鮮明に伝わってきた。
そんな岡田さんとの出会いやそれぞれに活躍していたUターン組の先輩後輩との出会いが絶えなかった30代前半。
里山さんの心には、一度外に出たからこそ感じられた町の魅力、Uターン組の熱い地元愛が追い風になり、波佐見を盛り上げたいという気持ちが湧き上がっているのを感じていたそうだ。
仕事面での大きな変化と数えきれないほどの出会いを経験したという40歳までの10年間。里山さんは当時を振り返り、自分の人生で一番刺激的な日々だったとキラキラした目で語った。
金富良舎の設立と現在の課題
40歳を迎え、波佐見町の有志で金富良舎を設立。文化や教育、人と人をつなぐ仲介人としての活動を始動させた。
一緒に始めたのはそれぞれの感性を持ち合わせ、Uターンで再会を果たした個性派ぞろいの同世代メンバー。たくさんの価値観が合致したことが里山さんの背中を押してくれたそうだ。
現在、金富良舎を設立した当時に考えていたことをどれくらい達成できているかと問われた里山さん。
「20%できてないと思う。」と答えた。
その理由には、コロナの流行をはじめ、本業との両立や時間の使い方など、バランスがまだまだ難しいと感じていると語った。とはいえ、周囲から注目を集めるほどの盛り上がりを見せている波佐見町。残りの80%はどういったところなのだろうか。
里山さんが一番やりたいことは文化を伝える「教育」で、そこにまだまだ力を入れていないのが残り80%という厳しめの評価だと言う。
「波佐見はとっても面白い町だが、それを町外に伝える機会が多くて、町内にはあまり伝わっていないのが課題。もっと町内の人、特に子どもたち、学生に町の面白さを伝えたい」と、現在感じている波佐見町の課題を語った。
外に伝わっているのに内に伝わらない要因は、町の産業や文化があることが町民にとっては“当たり前”になっているからこそ、当事者としての興味関心が湧かないこと。
今後町への注目度も変化していくことを考えれば、波佐見の未来を担う大きな課題でもある。
里山さんの今後の方向性とは?
現在40代前半を迎え、「模索の時期に入っている」と感じるという里山さん。40代までの刺激が多すぎたこともあり、自分のサイクルはひとまず一周したと捉えるようになってきたそうだ。
そんな模索の時期を迎えた里山さんが今思うこと、そして今後の展望に持っているのは「スタンダードであり、定番を提案する」ということ。多くの経験をしたからこそ、住宅はもちろん、長く存在するものに身を置くにはどうしたら良いのか、という単純な疑問に立ち返っている。
当たり前でありながら、実は一番難しい“定番”。自然や伝統にも溶け込む、スタンダードで理にかなっている物作りをしたいという気持ちが今は強いと語った。
しかしその反面では、若い頃に受けた衝撃が色あせることはなく、「もう一度自分をドキドキさせてくれるような何かが起こるのを待っている」とも語った。
この10年でかなりの変貌をとげ、全国的にも注目を浴びた波佐見町だからこそ、これから10年、20年経ったときに「昔は良かったけど、今の波佐見は面白くないよね」とは言われたくない。
今後の方向性としては広い意味での「教育」を強く意識していて、具体的な方法は、現在すでに行われている産業を伝える教育の継続や、今はまだあまりフォーカスされていない文化面を上手く伝えられる活動をやっていきたいそうだ。
波佐見町の強み、そして課題とは
里山さんの公開取材が終わり、第2部では「イベントの必要性、そしてどのようなイベントが必要か」というディスカッションが行われた。
今回の公開取材、ディスカッションに参加して改めて気づいたことは、波佐見町というエリアは県内外から一目置かれる存在になっているということだ。他の地域も同じように地域創生に取り組み、イベントの集客や成功を納めているなかで、なぜここまで波佐見が成功例として注目されているのか。その差には、文化と経済のバランスを調和させている波佐見独自の“地元愛”があるのではないだろうかと感じた。
このいとなみ研究室に参加するまでは、里山さんに対して「地域創生に力を入れている人」という漠然としたイメージしか持っていなかったが、里山さんのお話を聞いて感じたことは「彼も私と同じように町民の一人なのだ」ということ。町のなかで家族との日常を過ごし、日々仕事に取り組む。今日の波佐見町を作り上げてきたのは、そういった何気ない町民の “いとなみ”なのだ。
ただ、単なるいとなみを続けていてはいずれ町の衰退に繋がってしまう。そこで大事になってくるのが今回のテーマでもある「文化と経済のバランス」なのだろう。文化だけを尊重して時代に取り残されれば、町の将来性はなくなる。経済だけを優先すれば、町が作り上げてきた文化を失っていく。
波佐見焼のブランディング化、企業誘致、カフェや講堂といったスポット作り。これまで波佐見が成し遂げてきたものには、この文化と経済のバランスが上手く調和しているように感じる。
そして、その調和の手助けとなっているのが、里山さんのような地元愛を持った人であることに違いない。
里山さんのようにキラキラと町の未来を語る大人たち、町のいとなみを支える大人たち。
その背中は若い世代に、“自分の地元を誇っていいんだ”という安心感を与えてくれる。
里山さんは「まだまだ町内への教育が行き届いていない」と語られていたが、これまで彼が行ってきた活動のなかにも、その背中から“地元愛”の英才教育を受けた子どもは少なくないだろう。
そんな思いに賛同する人が増えていけば、これから先10年、20年、30年先の波佐見町はきっと“面白い町”であり続けられる。
いつの時代も里山さん自身が持ち続けていたのは冒険心。
“何かが起こるのを待っている”と語りながらも、里山さんはまだまだ何かを起こす側に経ち続けるのだろう。
人、仕事、地域を繋げる「金富良舎」は、今夜私が世代を超えて刺激を受けたように、どんどん仲介人としての役割を果たしていく。
地元愛を持った人がさらに集う波佐見町。これからのさらなる発展が楽しみだ。