隣にいる人のために、自分ができることを考える。『社会福祉法人 ながよ光彩会 代表理事 貞松徹さん』
2023.03.29 ひと
いとなみ研究室がおくる「ひとこと講座 -公開取材とローカル編集-」の公開取材企画・第2回は、社会福祉法人 ながよ光彩会の代表理事を務める貞松徹さん。
長崎県内にとどまらず、日本全国の高齢者介護業界をリードする、福祉分野のキーパーソンである貞松さんは、いかにして生まれ育ったのか? あまり語られていない、その原体験やターニングポイントは、本人でさえ気付いていない部分で今に生きている。
貞松さんの口から紡がれる言葉やメッセージの真意は、そんな不器用で等身大の人となりに現れているのかもしれない。
その男、またの名は「ヘロクライス・トオル」?
世代の人が見れば、ピンとくる作風のこのシール。ビールを片手に、頭の上には長崎くんちの唐人船、高校時代の吹奏楽部で演奏していたチューバ、奥さんと出会った沖縄の花・ハイビスカスを乗せて、3人息子に囲まれている。これは、貞松さんが普段から使っている名刺の中の一枚だ。
貞松「これは、私を表現するパーツを纏ったイラスト。佐世保の友人が営む『ミナトマチファクトリー』という障がい者の就労支援事業所で、一利用者でもあるアーティストさんがイラストを描いてくれました。彼の得意とする画風で、これほどの高いクオリティの作品を創ることができるんです。長崎の福祉事業所には、こんなふうに利用者の個性を徹底的にフォローし、活かそうとする人材がたくさんいます」
貞松さんは、講演の時でも、1対1の名刺交換の時でも、このシールを持ち出して必ず同じような説明をしている。自分自身の個性的なパーソナリティを表現しつつ、小さな「福祉の入り口」を差し出しているかのような一枚。友人への、そしてアーティストへの最大限のリスペクトが感じられる。
自分の行動が友達を支えていたことを知る
貞松さんの福祉のルーツを探るべく、インタビュアーが質問を投げかける。
「昔は、どんな子どもだったんですか?」。そう尋ねられて、貞松さんが思い出した小学校時代のエピソード。当時、銀行に勤めていた父親の事情で何度も転勤・転校を経験した。
貞松「転校した学校の中で、とある友達ができました。一緒に遊んだり、登下校したりと、普通に仲良く過ごしていて。ある時先生から、『君のおかげで、不登校だったあいつが学校に来てくれるようになったよ。ありがとう』と言われたんです」
貞松さん自身は、ただ友人と仲良くしていただけのつもりだったそう。自分が転校してくる前に、その友人が不登校だったことも、先生に教えてもらうまで知らなかったとのこと。
貞松「今の今まで忘れていたけど、『自分の最初の福祉体験ってなんだろう?』って考えた時に、ふとこの思い出が蘇ってきました。でも、私の中で『福祉』とこのエピソードが繋がったのは初めてですし、特別に意識したことはあんまりなくて……。転校してきた私に彼が仲良くしてくれていたからこそ、一緒に過ごしていただけなんです」
当時の貞松さんには、人助けで手を差し伸べているつもりはなかったらしい。しかしそれが、お互いにとって求めるものが合致し、支え合うかたちになった。さらに、先生からもその行動を褒められる体験に繋がった。
自然とフラットな関係を築き、他人の評価よりも自分の心に素直に従う、現在の貞松さんの片鱗が見えた。
ルーツ:理学療法士の道を選んだふたつのきっかけ
貞松さんは長崎東高校を卒業後、長崎リハビリテーション学院に進学し、理学療法士の道を進む。「高校に入ってすぐに勉強についていけなくなっちゃって、楽な道を選びました(笑)」と言いつつも、この進路に影響を与えたふたつの出来事があった。
貞松「ひとつは、小学生からずっと続けてきたバスケットボールが、中学2年の最後のほうで腰を痛めたことをきっかけに、できなくなってしまったこと。ヘルニアの診断を受けて、クリニックに通ってリハビリを続けたんですけど、いざ東高校に入ってバスケをやろうと思ったらまた再発。走ったり飛んだりすることができなくなりました」
こうなってしまっては、どのスポーツをやっても一緒。スポーツから一度離れて、吹奏楽部の世界へ飛び込んだ。
当時の長崎東高校は、ブラスバンドの有名校。そのことを知らずに飛び込み、結果的に「ここまで真面目にバスケやってなかったわ」ってくらいの熱量で部活に打ち込むことになる。
夢中だったバスケを断念せざるを得ないことになっても、ネガティブに捉えることはあまりなかったという貞松さん。「できないんだったら、違うことをやってみよう」と、すぐに切り替えて前に進み始めた。
貞松「そしてもうひとつが、兄が大学4年生の時にラグビーのお別れ試合でタックルを受けて、首の骨を折るケガを負ってしまったこと。私が高校2年の時でした。兄は今も車イス生活なんです」
当時、お兄さんは銀行への内定が決まっており、「私とは全然違うぐらい、本当に優秀な学生生活を送っていた」のだそう。手術とリハビリ、そして身の回りのお世話も含めて、お兄さんと母親は約2年の間、家を離れることに。
その期間、父親と姉、そして高校生の貞松さんの3人暮らしが続いた。
貞松「この時も、『兄のために何ができるか』とか明確に感じたわけではないですし、悲観的になりすぎることもありませんでした。もちろん、兄にとってはショックな出来事でした。でも、同級生から当時のことを聞けば、『兄のことがきっかけで、理学療法士を目指す』と私自身の口から話していたそうです。自分では覚えていませんでしたが(笑)」
貞松さんが福祉の世界に進むことを選ぶきっかけになった、自分自身のこと、お兄さんの怪我のこと。壁にぶつかっても、そこから一歩隣にずれて、現れた道の上をまた歩き始めるように貞松さんは前に進み続けていた。
ターニングポイント:沖縄で価値観が変わったふたつの出会い
専門学校を卒業し、無事に理学療法士となった貞松さんは、長崎を離れ沖縄で働き始める。実習先で訪れた沖縄でふれあった人々の優しさ・温かさを感じ、惹かれたのだった。
沖縄時代に経験したことは、貞松さんにとってのターニングポイント。貞松さんの価値観や生き方を左右する、ふたつの分岐点があった。
ひとつは、同じ病院に勤務していた先輩の存在。
貞松「実習の時に出会っていたのですが、この人と働きたい! と思える先輩が2人いて。その先輩たちは、自分の弱みや、過去にあった恥ずかしい出来事をオープンに話せる人たちでした。当時の私からすると、『そんなこと言ったら女の子から引かれるでしょ』ってことも(笑)。それでも2人の周りには人が集まってくるんです」
一方、貞松さんも他人のために教えたり動いたり、行動することは好きだけれども、自分の弱みを見せられない人間だった。
「俺はこれだけ尽くしてあげてるのに、どうしてあの人たちみたいに慕われないんだ」
「あの先輩たちはでたらめに過ごしているだけなのに……。寂しい!」
そう感じた貞松さんは、それからおよそ3年ほどの時間をかけて、先輩たちの言動・行動・思考を学び、とことん真似するようになったのだとか。
自分をオープンにすることで、周りの人も心を開いてくれる。そんな実体験を通して、少しずつ凝り固まっていたものが崩れていく感覚を覚えたという貞松さん。今でも弱みを見せることは得意ではないが、信頼関係を築く上で大事なことなのだと身をもって理解することができた。
そして、もうひとつのターニングポイントが、ヨットを乗りこなす船乗りたちの出会い。沖縄のオープンマリーナのイベントで乗せてもらったそうだ。
貞松「私の父親とあんまり変わらないような年齢のおっちゃんたちが、大学時代にヨットで太平洋を渡っただとか、これまでに送ってきたドラマティックな人生を聞かせてくれて。ここには書けないことも含めて(笑)。そんな一人称の体験談だけで、当時21歳の私のことを心の底からワクワクさせてくれたんです」
自分が父親やこの人たちと同じ60代の年齢になった時に、どちらかといえばヨットのおじさんたちのようになりたい。貞松さんはそう思った。
理学療法士になって5年後、貞松さんは一度病院を辞めて、バックパッカーとして海外を渡り歩くことを決意。理学療法士や作業療法士などのリハビリの仕事は、当時引く手数多であり、いつ辞めても、いつ戻ってきても支障がない時代だった。むしろ、多様な海外経験を積むことで貞松さんの評価も上がる。
妻・寿子さんも、当時ともに海外を回った。
最初の行き先は、ヨットのメッカ・ニュージーランド。そこから1年8ヶ月ほどの旅に出たのだった。
あんな先輩みたいになりたい。あんな大人になりたい。自分がこのまま病院で理学療法士として働き続けるよりも、今行っておかないとあの先輩みたいになれない。何よりもこの憧れが、貞松さんの世界を広げた。
貞松「きっと、長崎にいたままだと私は嫌なやつだったと思います。沖縄で自分自身をオープンにしてもらって、変えてきたからこそ、ここにいる仲間たちとの出会いがあるんじゃないかなって本気で思いますね」
この時に出会った人たち、芽生えた感情。そして、自分の気持ちに正直に従った行動が、貞松さんの人生の大きな分岐点だったかもしれない。
自分事と他人事のあいだにある、「おとなりごと」
心をひらくことの大切さを知り、世界の広さを知った貞松さん。いま、多くの人に福祉を伝える上で、大切にしていることを聴かせてもらった。
貞松「今まで話したような昔の体験談は、思い返せば、福祉に繋がってたなと感じることばかりです。不登校だった友人のために何かしてあげたいという気持ちではなく、目の前の友人と親しくしていただけだったことと同じように、姿形の見えない他人のために何かをやりたいって思わないんですよ」
福祉についても同じで、本当に周囲にいる人たちに求められることをやって喜んで欲しいし、自分も満たされたいと思っている貞松さん。届けたい福祉の範囲は、自分の家族や法人の職員、そしてその人たちの大切な家族や友人までだ。
貞松「大村のフリースクール『schoot』の内海さんからもらった言葉で、とても共感し大切にしているものがあります。それは、『自分事』と『他人事』のあいだに『おとなりごと』があるという考え方。他人の課題や悩みを自分事にするのは難しいけど、おとなりごとっていう感覚で、自分にできることは何かあるかな?と考える。それぐらいハードルを下げて考え、行動することが大切だと思っています」
自分のために、または身近な人のために。そして、それが巡り巡って、顔も知らない誰かのためになれば嬉しい。貞松さんは、今も昔も、自分にできることを考えて歩き続けているのでした。
公開取材の様子はこちらから。